積水極むべからず

漢文、ときどき読書

李世民と長孫皇后

 「創世の龍」に長孫皇后が出てきた記念とういことで、李世民とその正妻の長孫皇后がいかにらぶらぶだったかについて語ろうと思います。『旧唐書』と『新唐書』によると、李世民には十四人の息子と二十一人の娘がいて、「おお…子だくさん……」って感じなのですか、この二人の関係ですごいのはこのうちおそらく一人を除いて、全員が長孫皇后が存命中に生まれてるということ。 

 長孫皇后は三十六歳で早逝してます。二人は三歳違いなので世民はこの時三十九歳。中国史的にはまだ全然老けこむ年齢ではないなと思うのですが。長孫皇后が亡くなった時、世民は近臣に向かい

「後宮に行ってももう皇后が私も諫めてくれる声を聞けない。私は一良佐(良き側近)を失った。だから悲しみを忘れられない」

「但入宮不復聞規諌之言、失一良佐、故不能忘懐耳」

「ただ、宮に入りてもまた規諌の言を聞かず。一良佐を失えり。故に懐(思)いを忘るあたわざるのみ」(『資治通鑑』「唐紀」)

と話して泣いてるんですが、本当に悲しみのあまり後宮に行かなくなってるとは思いませんでした。それで後宮にあんまり足が向かなくなった世民がプライベートで何をするかというと子育てを始めます。

 長孫皇后の遺児で李治と晋陽公主の二人がまだ幼く(二人とも十歳以下だったらしい)、母親が死んだということで悲しみ嘆くのが哀れだということで、自ら手元において養ったと。

通常、皇子、公主の母親が亡くなった場合、他の後宮の女性たちから適当な人を選んで養母にしたりするのですが、それもしなかったようです。晋陽公主ちゃんは、書道が趣味の父皇帝に書を習ってたそうで、年の割に立派な書を書いたとか。最愛の亡き皇后の面影を残す娘に向かって書を教える世民とかちょっとときめきます。

 李治も書道の人の話では世民と見分けが付かないくらいそっくりの筆跡だったと聞いたことがあるのですが、それはおそらく世民から養育され直々に書を習ってたからなのでしょうね。 

史料は以下。

「晋陽公主字明達,幼字兕子,文德皇后所生(中略)后崩,時主始孩,不之識。及五歲,經后所遊地、哀不自勝。帝諸子,唯晉王及主最少,故親畜之」(『新唐書』巻八十三)

「晋陽公主 字は明達。幼字は兕子。文徳皇后の生む所なり。(中略)后崩ず。時に主始め 孩(幼)く、之れ識らず。五歳に及び、后の遊地する所を経るに哀しみて自らたえず。帝の諸子、唯だ晋王及び主最も少(幼)なし。故に親しく之を畜(育)つ」