積水極むべからず

漢文、ときどき読書

拓跋氏と老子はどちらが貴いか?(李氏の出自)

 唐代の皇族、李氏は漢族の貴族「隴西の李氏」に連なる家系であると自称している。

ただ、唐代当時からこの自称はあまり信じられておらず、唐初にこうした正式見解を使い始めたころから実際の所「経歴詐称」であることは公然の秘密だったようだ。

 ついには当時の皇帝李世民がある僧侶と李家の出自について朝廷で議論することになるという椿事も起きている。

 どうしてそんなことになったかというと、仏教と道教の争い、というのが関連してくる。

 隴西の李氏は始祖を李耼、すなわち老子だと称している。そこで皇家が隴西の李氏を名乗る以上、偉大な先祖の起こした道教を敬わなくてはいけないということになり、建前上、まずは道教を優先するという政策をとるようになる。

ここで、困ったのが当時、貴族や漢族、非漢族も含め広範な信者を獲得してた仏教集団。一つの前の隋代では皇族挙げて厚く信仰を受けていた、ということもあったのか、この道教を何かにつけて優先するという態度は受け入れがたかった。

 そこで当時の仏教界で随一の学識を持つ法琳という僧侶が登場する。彼は、李世民の前の皇帝李淵の時代から、道教側と「どちらが優れているか」という議論を朝廷を巻き込んで行ってきた論客でもあった。

 二代目の李世民になり、仏教側の不利をひしひしと感じていた法琳はここで大胆にも、そもそも李氏が道教を敬う、その根本理由の是非に踏み込むことにした。つまり、「老子を先祖に持つ」という李氏の家系そのものの否定を試みた。

 朝廷と何回かのやりとりがあったあげく、彼は李世民の面前で詰問を受ける。その対話の中で彼は

「拓跋達闍が唐が言う李氏であり、陛下のお血筋の李氏は、この子孫であります。柱下(老子の意味)や、隴西の流れではないと私は聞いております」と断定する。

 別に法琳も当時の皇帝を侮辱しようとは考えておらず、ここから怒濤のフォローが始まる。曰く、老子は元々卑しい生まれで、その子孫は奴隷になったこともあるなどなど。そして、法琳がいう拓拔達闍については

 「後の北魏の皇族に拓跋氏(元氏)の家系で、貴種であった」

と述べ、懇々とこの血筋の尊さを説く。(仏僧らしく、金を黄銅に変えたり、絹をぼろ切れに代えるようなぼどこしをする無欲の人と誉めているようだ)

 つまり、法琳自身が仏僧という特殊事情はあるのではあるが、彼の意識の中では老子の家系=隴西の李氏よりも北魏の皇族であった拓跋氏の方がより高い出自である、という話が展開されているようなのだ。

 当時はいわゆる貴族の時代であり、山東貴族(崔・盧・李・鄭)が社会的地位の上位に君臨する時代。かなりマイナーな意見ではあるものの、意外にもこうして北魏の皇族拓跋氏を貴ぶという考え方もあった、ということになる。

 こう言われた李世民だが、もちろん政府の公式見解と異なる意見を述べ先祖として敬っている老子を侮辱した法琳に激怒している。道教を貴ぶという姿勢も(近親を大事にするのは周代からのならいとか言って)変えることはなかった。

 ただその後、法琳の弁明を幾度か書状で見た李世民

 

「法琳は朕の祖先を侮辱したが、全く根拠がなくデタラメを言ったわけではない。特別に極刑を減じて、流罪としよう」

「法琳雖毀朕宗祖。非無典據。特可赦其極犯。徙在益部爲僧」

「法琳、朕の宗祖を毀つといえども、典拠無きにあらず。特に其の極犯を赦し徙して益部(益州)に在らしめ僧と為すべし」

 

とも言っている。

 李家の祖先、老子の家系について侮辱したことは許しがたいとしているものの、拓跋氏を祖とするという発言にはまんざらでもなさそうな何かを感じてしまうはひいき目だろうか。もちろん拓跋氏は非漢族である鮮卑の家系なのだが、それでも唐初はこうした観念がある時代でもあった。

 

 資料はいずれも『法琳別伝』より。なかなか読みづらくて、けっこう飛ばし読みをしたので誤読や解釈違いがあるかもしれない。

『法琳別伝』が収録されている『大正新脩大藏經』のデータベース

http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/index.htmlから。

この逸話の日本語訳については礪波護先生の『隋唐の仏教と国家』(中公文庫)を参照した。

 

隋唐の仏教と国家 (中公文庫)

隋唐の仏教と国家 (中公文庫)