積水極むべからず

漢文、ときどき読書

房・杜を見いだした人

 李世民の覇業とその後の政権維持を支えた房玄齢と杜如晦。「房・杜」と併称され、名宰相の代名詞とされる二人だが、李世民と出会う前、隋朝時代に同じ人物にその能力を高く評価されている。

 それが当時、吏部侍郎の職にあった高孝基(生まれは北海の人)という人物。

 房玄齢は彼から「私は多くの人を見てきたが、この若者のような人は見たことはない。必ず偉大な人物となる。(自分は高齢なので)彼が大成するのを見られないのが残念だ」と絶賛される(『旧唐書』)。

 対して杜如晦も有為の人材として推挙された後、吏部侍郎高孝基の目にとまり重く遇されることになった。そして同じく「あなたは(戦乱で本領を発揮するような)臨機応変の才がある。必ず時代の指導者の役に立つだろう」と評価される(『旧唐書』)

 さて、李世民に近しい人物の中にもうひとり高孝基に推挙された人がいる。

 それが正妃の長孫皇后と重臣長孫無忌兄妹の叔父(母の兄)で、養い親でもある高士廉(倹)。

 彼は北斉という亡国の皇族の生まれ、ということもあり広い交際を望まずに長安の南、終南山に隠棲していたのだが、同じく高孝基によって仕官を勧められ、科挙を受け官途に就いている。

 李世民の腹心中の腹心、三人を見出しているあたり、高孝基という人物はただものではなかったようだ。

 そしてこの高孝基は隋唐のキーパーソンの一人というべき、薛道衡の親友でもあった。

 高孝基(孝基は字で本名は構という)の伝(『隋書』巻66)によると、「薛道衡はつねに孝基に優れた批評眼があることをかっており、文章を書いた折には草稿をまず彼に見せその後に人前に出した」という。

 薛道衡は房玄齢の父、彦謙とも親しく、さらには高士廉とも「忘年の交」を結ぶ仲で、旧北斉地域の文人集団の中心人物だった。後にこの旧北斉集団が、玄齢を通じて李世民と結びつき、中国統一、後年の帝位奪取、貞観の治の安定につながる可能性を明らかにした研究もすでにある。(堀井裕之「即位前の唐太宗・秦王李世民集団の北斉系人士の分析」。webでも読め、高孝基と薛道衡、房・杜との関わりにも言及がある)

 まとめると、房玄齢は父を介して旧北斉文人の間に広い人脈を持っていたわけだが、かつてその人脈の中核にいた薛道衡を通じておそらく高士廉にまでその範囲は及んでいた。

 対してもう一人の宰相、杜如晦は本貫が長安近郊の京兆であり旧北斉地域の出身ではない。薛道衡との直接のつながりは見いだせないわけだが、高孝基という薛道衡の親友に評価されたことを通じてなんらかの関わりが薛道衡=房玄齢らとの間にあったのではないかと思われる。

 京兆の杜氏出身で出身地からは、その相棒である房玄齢との親密な関係性の原因がよく分からない杜如晦だが、高孝基という人物を通じて玄齢の地盤である旧北斉地域と関係をもっているわけである。

 注意深く論文や史書を読めば気づく話ではあるのだけれど、改めてじっくり調べて自分で考えてみるととても面白かった。隋末唐初の人間関係が少し立体的になったのではと思う。