積水極むべからず

漢文、ときどき読書

娘子軍

 平陽公主という人がいます。李淵の三女、李世民の同母姉に当たるこの人は、隋末の争乱期に軍を率いて武勲を挙げたという本物の「戦うお姫様」だったりします。

 李淵が挙兵したとき、既に嫁いでいた彼女は夫、柴紹とともに長安にいました。長安は当時はまだ隋の支配下、突然周囲は全部敵ばかりという困難な状況に置かれることになります。夫・柴紹は「お義父上の下に往きたいが、二人で行くことは敵の目もあり難しい。一人で行けば、後に残された貴女がどのような目にあうか……」と相談を持ちかけます。

 平陽公主のこのときの対応はめちゃくちゃイケメンで。「早く義父の所へ向かって下さい。わたくしは一婦人ですから、どことなりとも隠れてどのようになります。それぞれで今後の計画を立てましょう」と返答。柴紹は即座に李淵のいる太原へと出発します。

 その後の平陽公主ですが、これからの行動がとても「一婦人」ではない。大人しく隠れるどころか、家財を投じて兵を募り数百人を集めて李淵に呼応し自ら兵を挙げます。家僮の馬三宝を使い、周辺を荒らし回っていた関中の群雄、賊徒を説得。次々と配下に収めます。長安を守る隋軍からしばしば追討の兵を差し向けられますがこれを撃退。武功など長安西南一帯を制圧。最終的には七万の兵を得たとか。

 李淵が入関し、無事に夫とも再会するのですが、ここで軍務から引いたりせず、夫の柴紹とそれぞれ軍府を開き軍を率い長安攻城戦にも参戦。彼女が率いた軍を軍中では「娘子軍」と呼んだそうです。

 残念なことに、その後数年して亡くなってしまうのですが、そのときの葬儀も普通のお姫様じゃない。父・李淵は彼女の武勲に相応しいようにと軍楽である「鼓吹」や武装した兵士を並べて、彼女の亡骸を送ったそうです。礼儀を司る官(太常)から「婦人を鼓吹で送るのは礼ではありません」と突っ込まれているのですが、李淵は「公主の功績は、普通の婦人の及ぶものではない」と言い切り、この葬儀を強行したようです。

 

 李世民もこの最強のお姉ちゃんにはいろんな意味で勝てなかったんじゃないかと思ったりします。正妻の長孫氏や徐賢妃ら、はっきりものを言う聡明な女性を好んだのも、このお姉ちゃんの影響があったとしたらとか思ったら面白いですね。

 北朝から隋唐に掛けての女性は活躍している人が多いので楽しいです。

 

 史料は以下。

 

「紹謂公主曰「尊公將掃清多難、紹欲迎接義旗。同去則不可、獨行恐罹後患。為計若何?」公主曰:君宜速去。我一婦人、臨時易可藏隱。當別自為計矣」

(柴)紹 公主に謂いて曰く「尊公(李淵)将に掃清せんとするに難多し。紹 義旗を迎接せんと欲すれども、同じく去れば則ち可ならず。独り行けば後患を罹(蒙)ることを恐る。計を為すこと如何」と。公主曰く「君 宜しく速やかに去るべし。我 一婦人にして、時に臨みて蔵隠するべきこと易し。当に別に自ずから計を為すべし」

(略)「公主乃歸鄠縣莊所、遂散家資、招引山中亡命、得數百人。起兵以應高祖」

公主 鄠県の荘所に帰り、遂に家資を散じて、山中の亡命せしものを招引し数百人を得。兵を起こし以て高祖に応ず。

(略)「公主掠地至盩厔・武功・始平・皆下之。每申明法令、禁兵士、無得侵掠、故遠近奔赴者甚衆、得兵七萬人」

公主 地を掠すこと盩厔・武功・始平に至り、皆之を下す。常に法令を申明し、兵士を禁(戒)めて侵掠するを得ること無かれと。故に遠近、奔赴する者、甚だ多し。兵 七万人を得る。

(略)「及義軍渡河、遣紹將數百騎趨華陰、傍南山以迎公主。時公主引精兵萬餘與太宗軍會於渭北、與紹各置幕府、俱圍京城、營中號曰娘子軍

義軍 渡河するに及びて 紹 数百騎を将い華陰に趨き南山に傍(よ)りて以て公主を向かう。時に公主 精兵万余を引きて太宗と渭北に会す。紹と各々幕府を置き、倶に京城を囲む。営中号して曰く「娘子軍」と。

(略)「六年、薨。(略)太常奏議、以禮、婦人無鼓吹。高祖曰「鼓吹、軍樂也。往者公主於司竹舉兵以應義旗、親執金鼓、有克定之勳。周之文母、列於十亂。公主功參佐命、非常婦人之所匹也。何得無鼓吹」

(武徳)六年、薨ず。(略)太常奏議して曰く「礼を以てするに、婦人に鼓吹く無し」と。高祖曰く「鼓吹は軍楽なり。往者、公主 司竹において兵を挙げ、以て義旗に応ず。親しく金鼓を執り、克定の勲有り。周の文母は十乱に列す。公主の功 佐命に参ず。常の婦人の匹する所にあらざるなり。何ぞ鼓吹無き得んや」と。 (『旧唐書』巻五十八)