積水極むべからず

漢文、ときどき読書

玄甲軍

 李世民は即位する前、優れた将軍、唐朝の遠征司令官として大活躍します。強力な騎馬親衛隊を絶妙なタイミングで投入(というか自ら率いて突撃)する戦法を得意として勝ちを収めていました。『資治通鑑』によるとその勝利の決定打となる親衛隊は「玄甲軍」(黒い鎧の軍)と呼ばれていたようです。

 「秦王世民は千余騎の精鋭を選び、彼らにみな黒い戦衣と黒い鎧を着けさせた。左右の対に分けて、秦淑宝、程知節、尉遅敬徳、翟長孫にこの隊を率いさせた。戦う時は常に、世民自らも黒き鎧を着けてこの軍を率いて先頭を切って突入。向かう所敵はなく、敵は之を恐れた」

 秦叔宝、尉遅敬徳という後の世で神様として崇められるほどの武勇を誇る武将たちが同じ黒一色の甲衣をまとって精鋭を率い、黒い鎧を着けた李世民が自ら指揮を執って戦場を駆け抜けていたと想像すると、なんとも言えずかっこいいな~と思います。

 ところで、親衛隊というと主の身辺に侍る最も重要な軍隊ですが、それを率いる四将に旗揚げから唐に従っている所謂「子飼い」が一人もいないというのもすごいなと思うところ。秦叔宝、程知節は李密の魏から帰順、尉遅敬徳は唐軍を散々に苦しめ直に秦王世民軍と矛を交えた末に降伏し配下に、翟長孫は薛挙の元にいてやはり世民軍に敗れた後に帰順しています*1

 こういう所を見ると世民のカリスマ性を感じるとともに、これだけ「唐」本体(父親の李淵ら)と関わりのない、世民自身の人脈と勢力を培っていれば、警戒もされるし後の火種にもなるだろうなとも思います。実際、尉遅敬徳、程知節は後の皇太子である兄、李建成との対立、そして玄武門の変でも李世民派の急先鋒として役割を果たしますね。

 なにはともあれ、玄甲軍、めちゃくちゃ絵になるので、実写か漫画の華麗なビジュアルでみたいな~と思います。ただ、どうも『新唐書』『旧唐書』には記載がないのでどこから引いてきたかは謎。

 史料は以下。

「秦王世民選精銳千餘騎,皆皁衣玄甲,分為左右隊,使秦叔宝、程知節、尉遲敬德、翟長孫分將之。每戰,世民親被玄甲帥之為前鋒,乘機進擊,所向無不摧破,敵人畏之」

 

「秦王世民、精鋭千余騎を選び、皆な皁(黒)き衣、玄き甲にて、分かちて左右の隊と為す。秦叔宝、程知節、尉遅敬徳、翟長孫をして之を分将せしむ。毎に戦うに、世民親しく玄甲を被(こうむ)り之を帥いて前峰と為す。機に乗して進撃するに、向かう所、摧破せざるなし。敵人之を畏る」(『資治通鑑』)

*1:これはツイッターで教えてもらいました。

李靖と魏徴への敬意

 『隋唐嘉話』*1という唐代の歴史家がまとめた書物に李靖と魏徴と李世民の関係に関する面白い逸話が載っています。

世民は李靖とくつろいだ様子で(私的に)会う時には、常に李靖を「兄」と呼んで臣下として扱わなかった。帝位に即いてからは、魏徴と語り合う時には諱を使って自称し敬意を表したとのこと。

 李靖のことを「兄」と呼んで慕ってるあたり、こう、世民は自業自得とは言え、失ってしまった兄や父との関係を臣下で埋め合わせしようとしてるようなところがあるな~と思って、少し切なくなるエピソード。

 魏徴に対して諱を自称したというのもすごくて、皇帝は原則的には親と天以外には諱で名乗る必要がなく多分「朕」で良かったわけですが、ずっと「世民は~」と自称していたと。『貞観政要』のやりとりから類推して、魏徴に諌言されて反省して「世民は以前のことを反省しています」とか言ってたと想像すると現代人の感覚からするとかわいい気がします。

 李靖や魏徴は世民にとってはまさに「師父」であり「王師」であったということがうかがわれる話だなあと思います。

 史料は以下。

「太宗燕見衛公、常呼為兄、不以臣礼。初嗣位、与鄭公語恒自名。由是天下之人帰心焉」

「太宗、 燕(安)んじて衛公(李靖)に見ゆるに、常に呼びて兄と為し、臣礼を以てせず。初め位を嗣ぎしより、鄭公(魏徴)と語らうに恒に自ら名いう。是に由りて天下の人、心を帰す」(『隋唐嘉話』)

  

*1:『史通』で有名な唐代の歴史家劉史機の息子、劉餗が著者。宋代に『隋唐嘉話』と呼ばれだし、唐代には『国朝伝記』とか『伝記』とか呼ばれてたらしい

詔書の偽造と社会不安

 太原に挙兵するに当たり、李淵は社会不安を煽るために煬帝名義のひどい内容の詔書を偽造して社会不安を煽りました。

「周辺の二十歳~五十歳までの全男子を徴兵し、高句麗討伐に動員するというもの。この詔書を受けた周辺住民は当然、隋に対する怒りをかき立てられます。反隋思想が蔓延し、反乱を思う人が増えていったとのこと。

 いつの時代もデマや嘘を流して、市民をだまし都合の良い世論をつくる戦術って会ったんだな~と世知辛いものを覚えます。情報戦と民心掌握戦術ってこういうものなんですね。

 ツイッターのフォロワー様から教えていただいたことによると、後の時代も前の時代もこういう事はあったそうですが、詔書の偽造には苦労したみたい。この時李淵は太原留守という大官にあったので詔書の偽造も思いのままだったんでしょう。目的のためなら手段を選ばない李家の狡猾な手口を見ると、さすが一説には黄巾の乱以上と言われた隋末の混乱期をあっさり10年足らずで治めちゃう人たちだなあと思います。

史料は以下。

「(李)淵乃使文静詐為敕書、發太原・西河・雁門・馬邑民年二十已上五十已下悉為兵、期歲暮集涿郡、擊高麗。由是人情恟恟、思乱者益衆」

「(李)淵 乃ち(劉)文静をして詐りて勅書を為(作)らしめ、太原・西河・雁門・馬邑の民、年二十已上五十已以下悉く兵と為し、歳暮を期して涿郡に集め、高麗を撃たんと發す。是に由りて人情 恟恟とし、乱を思う者、益ます衆し」

李世民と長孫皇后

 「創世の龍」に長孫皇后が出てきた記念とういことで、李世民とその正妻の長孫皇后がいかにらぶらぶだったかについて語ろうと思います。『旧唐書』と『新唐書』によると、李世民には十四人の息子と二十一人の娘がいて、「おお…子だくさん……」って感じなのですか、この二人の関係ですごいのはこのうちおそらく一人を除いて、全員が長孫皇后が存命中に生まれてるということ。 

 長孫皇后は三十六歳で早逝してます。二人は三歳違いなので世民はこの時三十九歳。中国史的にはまだ全然老けこむ年齢ではないなと思うのですが。長孫皇后が亡くなった時、世民は近臣に向かい

「後宮に行ってももう皇后が私も諫めてくれる声を聞けない。私は一良佐(良き側近)を失った。だから悲しみを忘れられない」

「但入宮不復聞規諌之言、失一良佐、故不能忘懐耳」

「ただ、宮に入りてもまた規諌の言を聞かず。一良佐を失えり。故に懐(思)いを忘るあたわざるのみ」(『資治通鑑』「唐紀」)

と話して泣いてるんですが、本当に悲しみのあまり後宮に行かなくなってるとは思いませんでした。それで後宮にあんまり足が向かなくなった世民がプライベートで何をするかというと子育てを始めます。

 長孫皇后の遺児で李治と晋陽公主の二人がまだ幼く(二人とも十歳以下だったらしい)、母親が死んだということで悲しみ嘆くのが哀れだということで、自ら手元において養ったと。

通常、皇子、公主の母親が亡くなった場合、他の後宮の女性たちから適当な人を選んで養母にしたりするのですが、それもしなかったようです。晋陽公主ちゃんは、書道が趣味の父皇帝に書を習ってたそうで、年の割に立派な書を書いたとか。最愛の亡き皇后の面影を残す娘に向かって書を教える世民とかちょっとときめきます。

 李治も書道の人の話では世民と見分けが付かないくらいそっくりの筆跡だったと聞いたことがあるのですが、それはおそらく世民から養育され直々に書を習ってたからなのでしょうね。 

史料は以下。

「晋陽公主字明達,幼字兕子,文德皇后所生(中略)后崩,時主始孩,不之識。及五歲,經后所遊地、哀不自勝。帝諸子,唯晉王及主最少,故親畜之」(『新唐書』巻八十三)

「晋陽公主 字は明達。幼字は兕子。文徳皇后の生む所なり。(中略)后崩ず。時に主始め 孩(幼)く、之れ識らず。五歳に及び、后の遊地する所を経るに哀しみて自らたえず。帝の諸子、唯だ晋王及び主最も少(幼)なし。故に親しく之を畜(育)つ」